2019年10月28日月曜日

『密林の語り部』ガルバス・リョサ(岩波文庫)

20代の頃、人類学者カルロス・カスタネダの一連の著作にはまった時期がある。彼がヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥスに弟子入りをし、哲学的な対話や薬草を用いた意識変容などを学んでいくというものだ。私はリアルタイム世代ではないが、それらはその昔、資本主義社会を批判するカウンターカルチャーのバイブル的に持ち上げられたりもした。ドン・ファンが実在する人物かどうか不明ということで論争にもなったそうだが、私にとっては、それがノンフィクションであろうがフィクションであろうがどうでもよかった。読み物として抜群に面白かったからだ。

一連の著作の初めのころは、人類学者としてあくまで客観的視点を保とうと努めるカスタネダであるが、師であるドン・ファンに入れ込んでいくにつれ徐々にそれは失われ、中盤以降、確かに、ファンタジーとしか思えないような「非科学的」な展開が目白押しになる。例えば、呪術師どうしで、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンド合戦のような場面があったりする。それを「嘘」と一刀両断することも可能だが、カスタネダにとってはそれもまた真実だったのではないかと思うのだ。そして後世の若い一読者である私に大きな爪痕を残した。

リョサの『密林の語り部』を読み、久しぶりに思い出したのはあの頃の興奮だった。

1980年代のフィレンツェ。中年の男が画廊で偶然あるものをみつけ戦慄をおぼえる。アマゾン奥地で原住民の一団が輪になり催眠術にでもかかったように貌のみえない<語り部>の話をきいている写真だ。それみつめる男のなかで、過ぎし青春時代がよみがえる。

ペルーの首都で大学に通う<>は、顔に大きな痣のあるユダヤ人サウルと出会い友人関係となる。サウルはアマゾン奥地への旅をきっかけにそこに住む部族、とりわけマチゲンガ族に並々ならぬ興味と執着を抱くようになっていく。呪術や神話を信じ狩猟採集をする彼らの生活や文化を保護し続けることが重要だと主張するサウルと、国の経済発展のために多少のアマゾンの開発はやむなしとする<>のあいだには溝が生じるも友情はかわらず続いていた。その後、音信不通となったサウルがイスラエルへと移住したという噂を耳にする。

さらに月日が経ち、テレビ番組制作の仕事に就いた<>はアマゾンを訪れる機会を得る。そこで、マチゲンガ族のあいだを渡り歩き、その地の神話や伝説や出来事などを伝承する<語り部>の存在を思い出す。学生時代、<>もアマゾンへ赴いたことがあり、その際<語り部>に強く惹かれ小説の題材にしようと決心していたのだった。しかしそれは神秘的な存在で、現地のひとびとにきいても固く口を閉ざすだけだった。

本書は、主人公<>が友人サウルとの思い出や密林への旅を回顧する章と、<語り部>によって部族の生活や伝説が語られる章が、交互に配置されている。

後者は、私たちが慣れ親しんだ時制や文法、常識といったものを飛び越え、<語り部>独特の作法で語られ、未知の単語も頻出するので、初めは正直なところ読みにくいし面食らうが、こここそが本書の肝だと思う。

<語り部が話すように話すことは、その文化の深奥のものを感じ、生きることであり、その底部にあるものを捉え、歴史と神髄をきわめて、先祖からのタブーや、言い伝えや、味覚や、恐怖の感覚を自分のものとすることだからだ>

世界は資本主義、利益最優先、科学万能の精密歯車で動いている...ようにみえるが、皮膜を剥いでいけば、その奥にはそれらと違う次元で駆動する世界が潜んでいるのではないか。そんな直観を<語り部>の語りは与えてくれる。これはペルーの話だが、私たちすべての社会に通じることだと思う。呪術の世界をまるごと信じるわけではなくとも、カスタネダや<語り部>の話にわくわくする気持ちは、自らのなかにある原始の遺伝子がそれらに呼応しているしるしだと思うのだ。

<《放浪する人は放浪するのがよい》と、セリピガリ(評者註 : よい呪術師のようなもの)は言った。それが知恵だと思う。それはよいことだろう。人間があるべきものであることは。>

私たちが普段使う「知恵」とは少し顔つきの違う「知恵」が密林の陰からのぞいている。M