2022年8月29日月曜日

『島 水平線に棲む幻たち』岡谷公二(白水社)

  旅行へ行ったとき、何でも写真を撮りすぐにSNSでシェアしてしまうのは現代病だと自覚しているものの中毒でやめられない。一方でそんな行為にどこか虚しさを感じ、倦んでいる。というひとは多いのではないか。旅行が趣味の私もそうなのだ。旅を記録することや伝えることについてぼんやり考えていた時、偶然本書に出会い深く心に沁みた。

『島 水平線に棲む幻たち』は、フランス文学者・美術研究者岡谷公二が、まだ観光化される前の日本の離島を巡り記したエッセイである。登場するのは石垣、西表、瀬戸内、種子島など南の島々だが、本書が発行されたのは1984年で、実際に旅をしたのはさらに前のようなので、私たちがイメージするような高度に開発された明るいリゾート地といった趣はここにはまだない。閑散とし、うら寂しく、過疎に晒され、ときには古いしきたりや掟が根強く残る、本土とは切り離された異界。そんな離島の姿を、著者の鋭い目がとらえ、詩情に満ちた文章に昇華していく技芸が素晴らしい。写真など図版は一切付されていないが、文字以外の視覚情報がないからこそ、見知らぬ島の風景が音が匂いがまざまざと浮かんでくる。

<海と空へ向って無限にひろがってゆく島の空間は、大きな開放感を与えてくれたが、一方で支えを失ったような不安と、海にたえずつけ狙われているといった微かな恐怖をも感じさせた>。

 著者が各々の島へ来た目的は詳述されない。それゆえ、読者も突如非日常の時空にワープしたような不安と高揚が入り混じる感覚をおぼえる。

<明るい光の中を歩きまわっていると、自分までが光となって、少しずつ輪郭や実体を失い、体が軽くなってゆくように思われた><そうした光が、波ひとつない海面一杯に反射して、きらめいているのを長い間見ていると、酒に酔うように光に酔った。私がでかけてくる午後から夕方にかけて、光は、一層の豊醇さとこくを加へ、濃く淀んで、いくらか粘り気さえ帯び、海をはじめ、視野の中のすべてのものを、油を塗ったように輝かせた。海そのものが、光のたゆたいと化すかと思われた>。

 こちらまで”光酔い”しそうなくらくらさせる文章である。日が沈んだあとはさらなる魅惑的描写が続く。

<空には無数の星が輝いていた。それにしてもなんとみごとな星だろう。この亜熱帯の島では、植物同様、星までが並外れて成熟するらしい。濃密な闇を吸って、星どもはすっかり太っている。白い、強い輝き。空全体にうすい光の靄がかかっているようだ><私は、そんな夜の中で、長い間一人でじっとしていた。私はこれまで、こんな夜に出会ったことはないような気がした。この島の夜の中には、私が長い間思い出そうとつとめながら思い出すことのできなかったものがあった。それは、夢のようなもの、遥かな幻のようなもの、或る幼年期の記憶のようなものだった>。

 同じものを見てもきっと「降るような星空」みたいな陳腐な表現しか思い浮かばないであろう私もいつかこんな夜空の下に身をおいてみたい。そこに顕れる心もようはどんな感じだろう。

<しばらく滞在してみよう、と私は思った。私はここで、なにものにもわずらわされずに、様々なことを考えてみるつもりだった。私は失ったものをとり戻し、忘れたものを思い出さねばならなかった>。

 旅、特にひとり旅の魅力の本質とはきっと、遠い地へわざわざ足を運び、世界中で一番近しい自分自身に向き合うことではないだろうか。

 今度旅する際はノートとペンをポケットに忍ばせていこう。スマホを触る何分の一かでも時間を割き、その光景に、出会った人々に、思索を巡らせ、咀嚼し、下手くそでもいい、文章で描いてみよう。岡谷氏のように流麗にはいかずとも、私だけの風景、私だけの旅がそこに立ち上がってくるはずだ。と、考えるだけで、不思議なことに出かける前からすでにわくわくしている自分がいる。

2022年7月28日木曜日

『雌犬』ピラール・キンタナ(国書刊行会)

 ピラール・キンタナ『雌犬』の主人公と同じく私も雌犬を飼っていた。小学生の頃、担任が仔犬の貰い手を探しており、一目惚れした私は「自分が面倒をみる」と親を説得し半ば無理やり引き取った。溺愛し、一緒に寝、胸元に抱き連れてまわった。年月が経つにつれ人生の楽しみが増え私の犬に対する関心は薄れていった。散歩や餌やりなど日々の「義務」が面倒くさくなりいつもおざなりに済ませ冷たい鎖につなぎ私は遊びに出た。大学生になり私が語学留学で海外へ行っているあいだに老いた犬は死んだ。私は泣かなかった。あれから数十年経った今もその犬のことをよく思い出し、毎度胸が疼く。そして心のなかで謝り続けている。自分の残酷さに向き合いながら。

 そんな私にとって『雌犬』はきつい本だ。しかしそんな私だからこそ魂が揺さぶられる感覚をおぼえる特別な一冊でもある。

 主人公ダマリスは四十過ぎの女。コロンビアの海沿いの小さな村で屋敷の管理をしながら漁師の夫とともに貧乏な生活を送っている。子のない彼女はふとしたことから雌の仔犬を貰い受け可愛がりはじめる。粗暴で動物虐待を屁とも思わぬ夫から守り育て愛情を注ぐ。夫婦生活はすでに冷え切っており彼女のなかで雌犬は夫より大切な存在だった。しかし雌犬に逃げだす癖がついたのをきっかけに彼女の犬に対する気持ちと態度は徐々に冷淡なものにかわり、さらに、昏く複雑な感情もまじってゆく。

 子供時代、海で事故により友達を亡くし、傍でみていた彼女は親類に罰として鞭打たれ、その死は自らの責任だと思い込むようになる。やがて結婚し子ができぬまま歳を重ねると<女が乾く年頃>と周りに言われ、女としての機能を失ったという意識が芽生え内面化していった。そうした過去や罪の意識、自分に対するネガティブな感情が、雌犬の成長とともに彼女の裡で膨らみ、あるきっかけで破裂する。クライマックスの出来事に至りついに「ああっ」と声がでてしまった。それが何の感嘆なのかあえて書かないのでご自身で体感されたし。

 舞台となる一帯は密林と海に囲まれ観光客も訪れると書いてあるから恐らく一般的に「トロピカル」と形容されるような美しい場所なのだと想像する。しかし、貧乏で携帯電話もほとんど使えず、買い物へ行くにも海に浸かって歩かなくてはいけないような崖の上で暮らす主人公にとってそこは逃げ場のない地獄。物理的な隔絶だけではない。孤独、罪の意識、悔恨、そして古い因習や女性に対する前時代的な価値観、暴力などに囚われている。

 結末は所謂ハッピーエンドとは言い難い。「許せない!」と思う読者も少なからずいるだろう。しかし主人公のなかには人生で初めて感じる開放感や光明のようなものも生まれたのではないかと思う。彼女にとって雌犬とはなんだったのか。子ができなかった女にとっての疑似的な娘、とみることもできるが、世界で唯一心通わすことができるもうひとりの自分でもあったのではないか。しかしそれは徐々に制御不能になり、彼女が掴めたかもしれずでも結局手に入らなかったものをみせつけることになる。そしてとったある行動の結果、それまで想像すらしなかった未来への扉が開く。今まで彼女を遮ぎっていた障壁、先のみえない密林の奥へ。

 という文学的読み解きをしつつ最後にこれも書いておきたい。私はやはり犬はメタファーではなくあくまでも犬として読んでしまう。犬への悔いというものは消えることはない。密林を抜けた先にどんな未来が待っていても、ダマリスのなかに苦い思いは残り続けるだろう。それだけははっきり言える。M

2022年7月25日月曜日

『ディスタント』ミヤギフトシ(河出書房新社)

  映像、オブジェ、写真など様々な形態で作品を発表する現代美術作家ミヤギフトシの初めての小説集『ディスタント』は読む者に「きらめき」を体感させる。それは文字通り「光」のことだ。

<金色の刺繡糸がジョシュの呼吸に合わせてかすかに光を反射し、彼のまわりを無数の埃が金色の粒子になって浮かんでいた>

 ここではわかりやすく具体的に光が登場する箇所を引用したが、直接それを描かずとも、ミヤギ氏の文章はどれも静かに発光している。それは彼が光と影を採取するプロ、写真家でもあることが大きな要因のひとつだろう。自分の内側にみえないカメラを向け、様々な記憶や風景をシャッターのかわりに言葉で切り取り、コラージュのように配置した、本作はそんな一風かわった小説なのである。小説という体をとっている以上主人公=作者ではないが作者の経歴やインタビューを読むかぎり「≒」ではあると考えてよいと思う。

 主人公は80年代初頭に沖縄の小さな離島で生まれた男性。セクシャルマイノリティでもある。小さな島から那覇に出たのち、大阪の専門学校を卒業し、ニューヨークの大学へとすすみ現在は東京で活動するアーティスト。読者は時代を行き来する回想を味わいながらその人生のパーツを脳内で組み立てていくことになる。

 子供の頃、ハーフの双子と一緒に米軍基地の近くの部屋でレンタルビデオをみて過ごした幸せな時間。友達4人で行方不明の難民の子供を探しに<秘境>と呼ばれる小さな島へ冒険へ行く映画『スタンド・バイ・ミー』のような話。大阪で、成長した件の双子のひとりと再会し那覇での高校時代の甘苦い出来事を思い出す話。ニューヨークで作品づくりのため、見知らぬ男性の家へあげてもらい、<まるで恋人どうしであるかのような写真>を撮影する話。などなど。

 派手な見せ場やあっと驚くようなどんでん返しはない。明確な起承転結もない。あるのは小さなエピソードの連なりだけだ。しかし驚くほど心奪われる。それは各光景が、誰もが若い頃経験する”何者でもない時間”の、どこへ辿り着くとも知れぬ大海を揺蕩うような、不安と期待と切なさが入り混じるあの感覚を思い起こさせてくれるからだ。

 静謐ながらも改行少なく押し寄せてくるような文章は物語を駆動させるためのたんなる道具ではなく、本というキャンバスにばらまかれた大量のスナップのようだ。テレビゲームや音楽、ハリウッド映画など当時のポップカルチャーも大量に織り込んだその一文一文から、苦悩や痛みも含めそれまでの人生すべての瞬間を愛おしむ気持ちが伝わってくる。それが一見平凡な時だったとしても。いや。だからこそ。


<長い両腕が持ち上げられ、腕、肘、手と僕は視線を上げていき、開かれた細く繊細な指にみとれながら、その隙間を流れる空気を想像しようとした。このまま濃さを増すと黒くなってしまいそうなほど深く沈んだ青色は、ささやかにちらつくきらめきをも吸い込んでしまいそうだった>。時折顕れるこのような文章に私は息をのむ。主人公が好意を抱いたと思しき相手へと、自然と彼の眼は”ズーム”し、目に見えぬ空気の粒子すら心にやきつけようとするのだ。

 最後の章で、主人公の人称がそれまでの<僕><私>から三人称<ジャック(ニックネーム)>へと変化する。それは長い時と移動を経て成長し自分を客観する視点を獲得したという証だろうか。離島から大都会へ。子供から大人へ。物理的な距離。時間的な距離。様々な”ディスタンス”で対象に焦点を合わせ綴られた無数の思い出たちが、きらめく星座のようにひとつの青春を浮かび上がらせる。M

2022年5月15日日曜日

『宝島』真藤 順丈(講談社)

 沖縄復帰50年。テレビラジオでは数多くの特集が組まれており、できる限りチェックするようにしている。だが興味のないひとは「復帰」といわれてもピンとこないのかもしれない。先日みたある番組でインタビューを受けていた若い観光客は沖縄に来るまで米軍基地があることすら知らなかったという。  

 真藤順丈『宝島』は、沖縄に詳しくない、さほど興味のない、そんなひとにこそおすすめしたい「ちむどんどん(胸がどきどき)」すること間違いなしの一冊だ。  

 第9回山田風太郎賞、160回直木賞、第5回沖縄書店大賞の三冠受賞作、本作には、沖縄の熱気、絶望、そして希望が圧倒的な筆力で描かれている。  

 アメリカ統治下の沖縄(「アメリカ世(ゆー)」という)。生活の糧を得るため、米軍の倉庫や基地から物資を奪い生計を立てた「戦果アギヤー」と呼ばれる者たちがいた(これは史実)。その中でもとびきりのカリスマ性を発揮し「英雄」として島民皆から慕われたオンちゃんがある夜「仕事」の直後に消えた。残されたのは、同じアギヤー仲間にして親友のグスク。兄オンちゃんに憧れる武闘派の弟レイ。そしてオンちゃんを待ち続ける恋人ヤマコ。  
 その後、彼らはそれぞれ、警察、アシバー(ヤクザ)、教師という全く異なる道を歩む。それでも3人には共通の目的があった。オンちゃん失踪の真相を探ること。米軍内部に入り込み情報を得るためスパイのような仕事を請け負うグスク。ヤクザ同志の抗争から島を飛び出し遥か遠方で意外な事実をみつけるレイ。反基地運動に身を投じてゆくヤマコ。復帰前の沖縄のうねりと重なる20年の歳月の末、彼らが目にする真実とは?オンちゃんは生きているのか?それとも?  

 500ページを越す厚さにもかかわらず頁をめくる手を止めさせないストーリーテリング力は凄まじく、そこに生き生きとしたウチナーグチ(沖縄の言葉)の応酬が魂を込める。ちなみに作者はウチナーンチュ(沖縄人)ではなく内地の人である。これぞ作家の執念がなせる業かと唸らされる。作者のインタビューを読むと、沖縄人ではない者がこういう物語を書いてよいのか葛藤があったそうだが、発表後には地元の人々にも広く受け入れられ安心したそうだ。  

 ユンター(語り部)が皆に語りきかせているという体の、軽快で笑いも随所にちりばめられた文体だが、米軍戦闘機墜落事故や米兵による暴行事件、そして民衆の怒りが爆発したコザ暴動などあの時代を語るとき欠くことのできない重大事件も数多く織り込まれている。誰もが楽しめるエンターテインメントにして沖縄戦後史を内側から概観できる”歴史小説”でもあるのだ。 

 「さあ、起(う)きらんね。そろそろ本当に生きるときがきた」  

 序章におけるオンちゃんの台詞だ。この本の表紙には「HERO’S ISLAND」という副題が印刷されている。ハリウッド製「ヒーロー映画」が映画界を席巻して久しいが、宇宙からやってきた侵略者やモンスターを撃退することだけがヒーローなのだろうか?本当の「英雄」とは何か?この小説は問う。そのこたえを語ることができる自分の言葉をみつけたとき、ようやく目がひらき、物語が、はじまる。M

2022年4月16日土曜日

『族長の秋』ガブリエル ガルシア=マルケス(集英社文庫)

  ウクライナ侵攻よりだいぶ前、この本を次回読書会の課題本にしようと決めた理由は「なんとなく」だったのだが、この小説に書かれていることと今ニュースでみる「彼」との重なりは怖いくらいだ。

 大統領が死んだ。南米某国をモデルにしたと思しき架空の国。彗星が何度も巡りくるような長い年月、大統領はその国を絶大な権力で支配していた。ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』は彼の晩年を、周囲の人間たちの語りも交えつつ描き、権力というものの残虐性と滑稽さ、そして空虚さを浮かび上がらせていく。

 睾丸にヘルニアをもち、常に身体的苦痛に悩まされる老大統領。独裁者として長年君臨し続けているが、公の場に姿をほとんどみせず、民衆はすでにその存在すら疑っているような伝説の存在だ。

 広大な官邸には、自ら世話する牛を飼い、彼を奇跡を起こす神のように慕う病人たちが溢れかえっている。やさしく寛大にみえるが、権力を維持するため手段を選ばぬ冷酷な面も合わせもつ。

 周囲の人間を粛清していくその手際と手法は凄惨極まりない。

 極め付きは中盤ある人物を処刑する場面。裏切りの影に疑心暗鬼になった彼は目を背けたくなるような容赦ない罰をくだす。何かを食べながら読むのは要注意だ。これにかんしては例えば、残酷シーンが印象深いなあの映画やあの映画(タイトルを書くと即ネタバレになるので。すみません)などを思い起こさせるが作られたのはこの小説のほうが先なのであれらはすべてここから想を得たのではないかなどと勘ぐってしまう。

 恐怖による支配は周りにイエスマンのみをつくっていく。

 <親衛隊の兵士たちが軍靴のかかとを鳴らして敬礼し、異常はありません、閣下、と報告した。しかし大統領は、それが事実でないこと、普段の癖ででたらめを言っていること、怖くて嘘をついていること、この不安定な状況のなかでは真実と呼べるものは何ひとつないことなどを、ちゃんと心得ていた。

 先日ロシアの「彼」が閣僚たちに会議で意見を求めるシーンをTVで放映していたが、「意見を求める」というのは形だけで、恫喝めいた彼の視線に恐れおののき脂汗が垂れるのがみえそうな閣僚たちはしどろもどろで「彼」の求めるままの答えを述べていた。また、閣僚たちは予想外に苦戦を強いられる実際の戦況を報告するのが怖くて虚偽を述べていた、という報道もみた。「彼」もまた恐怖という強固な壁をつくり、そのなかで孤立し、真実がもはやみえないのだろう。

 一方ですべてを手に入れたかにみえる彼が老いてなお求めるのは「愛」である。特に女性からの愛に飢えている。ミスコン優勝者の美人、正妻となる元修練女、そして母親。「母なる海」という言葉があるが、国のいたる事物を列強国に搾取され続けるも頑なに譲り渡すのを拒否した「海」にそんな女たちの愛をかんじていたのではないか。

 もはや崇拝対象ともいえる彼女らは様々な形で彼のもとを去っていく。なかには彼が行った数々の悪行の報いであるかのような凄惨な最期を遂げるものもいる。孤独に陥った彼はあわれロリコン老人となり果てて女学校の生徒にまで手を出す無様を晒す。

<彼は自分に愛の能力が欠けていることを悟り、この呪われた宿命をわびしい悪癖めいた権力への熱烈な帰依によって埋め合わせようと努めた>

 愛を手に入れられない彼は、さらに残虐な行為をスカレートさせていく。

 かように作品は大統領の魂の崩壊を描くのだが物語は一方向には進まない。過去と現在を頻繁に行きつ戻りつしながら語られるこの小説には改行がほとんどないため時間の切り替えがわかりにくい。読者は今読んでいるのがいったいいつの話なのか、いつしか判然としなくなってくる。それは老いた大統領の頭のなかを疑似体験しているかのようだ。愛に飢え、郷愁にすがる彼は現在に生きておらず過去の海に溺れているのだ。そして彼の死体にはコバンザメや貝など無数の海の生物がこびりついていた。

<大統領はテーブルに載せていたこぶしを開き、手のひらのものを相手に見せた。こいつは、そこらに転がっているただのビー玉だが、しかし持つと持たぬのでは大違いだ、いいかね、祖国とはそういうものなんだ>

 後生大事に握りしめる権力という名のビー玉は幻想を寄せ集めてつくりだしたただのガラス玉かもしれないが、それは大勢の人間を死に追いやることもできる恐ろしいガラス玉だ。そのガラス玉を最後まで手放さないつもりなのかと現実世界の「彼」をみながら考える。M



2021年4月5日月曜日

『別荘』ホセ・ドノソ(現代企画室)

  私が参加している某読書会では一冊の本を数回に分け約1年かけて読む。各回の該当ページより先は読んではいけないという面白いルールもある。ホセ・ドノソの小説『別荘』が課題本に決まり読み始めたとき、世界はまだコロナ前だった。だが途中で状況は一変し、後半の会は残念ながら中止に。でもせっかく買ったことだし、と読み進めるにつれ、偶々掌中にある1970年代の作品の内容が現在の現実世界と重なっていき、この時期この小説と出会えたことは必然に思えてきたのだった。

 本作は、マルランダなる架空の荒地にたつ豪奢な建物=<別荘>を舞台にした物語である。この館の持ち主、ベントゥーラ一族が遠方の首都からひと夏を過ごすためにやってくる。彼ら兄弟姉妹と配偶者含め十数人、その子供たち30人以上、さらに使用人多数も含めた大所帯。一族は、かの地の金鉱を自らの所有物としたうえ原住民を働かせ搾取した金(きん)の売買で財を成し、一帯を支配下に置いている。伝統と規律の保守的思想をもつ大人世代ベントゥーラ達は、”現地人には食人習慣がある”という噂を流布し皆の恐怖を煽ることにより家族の結束と自らの権力を維持しようと躍起である。槍でできた塀が張り巡らされ外界と遮断された敷地内において、子供たちは<公爵夫人は五時に出発した>という謎の芝居を演じるのに夢中で、親たちに支配されているという意識すらないようにみえた。

 ある日、別荘での単調な生活に飽きた大人たちのなかからピクニックへ行こうという計画がもちあがり、風光明媚な別天地に惹かれた彼らは子供たちを置いて出発する。途端、それまで従順にみえた子供たちの様相がかわり、不穏な動きが活発化。既存の価値観を転覆させようとする者、現状を維持したまま権力を掠め取ろうとする者、塀を破壊し外界との境をなくそうと画策する者など、大人たちの軛を逃れた彼らの活動により次第に<別荘>は変貌していく。そして、進歩的な考えをもつがゆえ「食人」原住民と親密で、ある事件をきっかけに狂人として塔に幽閉されていたある男が解き放たれる。彼はこの「革命」のリーダーとして担ぎ上げられてゆくのだが...。

 年端も行かない子供たちがわざと年齢不相応な大人びた台詞を吐くことからもわかるように、これは<別荘>を国や共同体に見立てた権力を巡る寓話である。大人たちが仮想敵をつくり民をまとめようとする姿はどこかの指導者にそっくりだし、腐った現実をみてみぬふりで偽りの享楽に狂騒する人々、それぞれの欲望をベールの裏に押し隠し「正義」を振りかざす滑稽な権力闘争劇など、私たちにとってももはやおなじみの光景に溢れている。

 そして何より私が「今っぽい」と感じたのは、全編を通して彼らをじわじわと恐怖の淵へ追いやっていく<グラミネア>という背の高い植物の存在だ。荒地に無数に自生するそれらはある時期になると息もできぬほど大量の綿毛を放出しその威力で人間に死をもたらす。<皆同じマスクをつけて綿毛の攻撃に耐え忍んでいるようだった>、などと描かれるように、建物に籠りただ災厄が過ぎるのを待つしかない登場人物の姿は現在の私たちそっくりなのである。

 使用人や原住民を抑圧し好き放題狼藉をはたらいてきた者たちと、それをひっくり返そうとする者たち、名も覚えきれぬほどたくさんの登場人物が入り乱れ、限定的な空間を舞台にしているにもかかわらず、壮大な物語が織りなされる。五百ページ超の大部だが抜群のストーリーテリング力でぐいぐい読ませるので臆せず挑んでほしい。最後に待ち構える大カタストロフィーは今に繋がる。M

 




2021年3月22日月曜日

『はじめての沖縄』岸政彦(新曜社)

 子供の頃に親の転勤で、大人になってからは自分の転勤で、沖縄に住んだことがある。それ以来私も『はじめての沖縄』の著者岸政彦と同じ「病」に罹っている。だから彼が次のように書く気持ちがよくわかる。<二十代の終わり頃、たまたま訪れた沖縄にハマり、いわゆる「沖縄病」になった>。社会学者である彼はその後研究テーマに沖縄を選び、長年繰り返し足を運ぶまでになる。 

 本書は初心者向けの沖縄ガイド本、ではない。歴史や時事問題を解説した本でもない。著者が、現地の人々から聞き集めた様々な語りをちりばめながら、「ナイチャー(内地の人間)」としてそれらをどのように書き、伝えればよいかという苦悩や葛藤それじたいも含め綴った一風かわった「沖縄本」だ。

 タクシー運転手とのたわいない世間話からおじいおばあの凄惨な戦争体験談まで、彼が集めた語りは多岐にわたる。

 たとえば、戦時中、石垣島で避難生活を送った女性の話。マラリアに苦しむ母親が熱を下げるため頭を盥の水につけて寝ていたら反対側から蛇がその水を飲んでいた。彼女は言う。<蛇も音を立てて飲むよ>。ただそういうことがあったという話だがどこか幻想小説めいてもいて強烈な印象だ。  

 著者は、死屍累々を踏んで歩くような壮絶体験と区別せずこのような「小さな」話にも熱心に耳を傾ける。なぜなら、<どの経験も、どの物語も、すべて沖縄である>からだ。<沖縄的なもの>とは<文化的DNA>とか気候風土ではなくもっと個人的で世俗的なものと関係がある考える。だから普通の人々の話を聞き続ける。

 同時に沖縄を愛するがゆえに境界線をひく。<自分は内地の側にいて、そして沖縄の人びとは沖縄にいる>、と。 <「日本の」側>は琉球を武力で併合し、捨て石のように扱い、地上戦を招き、二十七年間アメリカに譲り渡し、その後も基地を残存させた。<どこまでも、非対称的な、不平等な、一方的な関係>なのだ。それにまだ「カタ」がついていないからこそ、<境界線のこちら側に踏みとどまり(略)この分厚く高い壁について考えたい>。

 確かに私も目に見えない壁を感じることは多い。沖縄の人々はすごく優しい。そしてとても親切だ。それらに感動こそすれど嫌な思いをしたことはほとんどない。だが私が「ナイチャー」である限り、その内部に壁はある。そしてそれは彼ら「ウチナンチュ」のなかにもおそらくある。差別や偏見。認めたくないが否定はできない。それをないことにして、みないふりをして、沖縄と本当に<出会う>ことはできないと感じる。私は岸の態度に共感する。これはもう沖縄だけの話ではないよな、と思っていると本書は終盤、さらに大きなテーマ=「社会とはなにか」へと広がりをみせる。

 岸によると、社会とは人々がお互いにつながっている状態ではない。もしつながっているならば私たちはいつもこんなに寂しく孤独であるはずはない。つながっているのは「市場」という場においてだけだ。切り離された個人の集まりである社会において、私たちはお互いの立場を交換することができない。が、言葉による理解は努力すればできる可能性がある。境界線のこちらと向こう。それでもつながりを希求する著者が導きだした方法は、クリシェと化した言説でなく、個人の言葉を世俗的に語ること、なのだ。

 美ら海水族館へ行っただけでは、国際通りを歩いただけでは、ソーキそばを食べただけでは、<本当の沖縄>には出会えない。憧れのひとに恋焦がれても見ているだけでは心には触れられないように。まず、聞き、語ること。それは言葉が架ける橋。いつ架かるかわからないし、架かるかどうかもわかならい。でももしかしたらいつか心の境界を越えることができるかもしれない。そのときみえる景色がきっと「はじめての沖縄」だ。


2020年1月21日火曜日

『私は本屋が好きでした』永江朗(太郎次郎社エディタス)

世には「本屋にかんする本」「出版にかんする本」がたくさん出ているが、普段そういう本はほとんど読まない。

昔10年ほど書店員としてどっぷりと働いたことがあり、そのときのややトラウマ的な記憶もあいまって、本に関する業界内幕話はもうお腹いっぱい、むしろあまり目を向けたくないという気持ちがあるからだ。

本書は先日常連のお客様が持ってきてくれ、たまには、と気まぐれに読んでみたのだった。

嫌韓反中のいわゆる「ヘイト本」がどのような仕組みでつくられ本屋に並べられるのかについて取材し当事者たち(編集者、取次、本屋)のインタビューを交えながら詳細に考察していく。

その過程でみえてくるのは現在の出版物の販売方法、流通方法が抱える根本的な問題である。

例えば先に私は「取次」とさらっと書いたが、本屋事情にあまり詳しくない方はなんのことだかよくわからないのではないか。

一般的な本屋は雑貨屋などと異なり「仕入れたいもの、売りたいもの(だけ)を注文して仕入れて売る」という単純なシステムではない。

ものすごくざっくりいえば、基本的には「取次」と呼ばれる会社を通じて「配本」されたもの、文字通り「配られた本」を売るのである。だから商品が到着する当日まで自分が何を売るかわからないという奇妙な商売でもあるのだ。(もちろん個別に注文もできるしいろいろ例外はありますが詳しくは本書に委ねます。)

だから本屋じたいが「ヘイト本」を積極的に売ろう、注文しよう、と思わなくても「入ってきてしまう」のである。

ここからはすこし私の個人的な体験、体感。

私が本屋で働いていた当時は「ヘイト本」的なものはほとんどなかったと思うし、万一配本されたとしても私が働いていた書店はどちらかといえば「セレクトショップ的書店」だったので置かなくても(そのまま返品しても)会社的に問題はなかっただろう。

だがそういう明らかに問題のある書籍ではないが、担当者(私)が特に売りたいと思っていなくてもどんどんひとりでに売り場が増殖していってしまうという経験はたくさんある。

たとえば当時、私が「癒し系」とよんでいた本が大量に出版されていた。ふわっとした絵や写真にふわっとした文章が少し載ったような本。今でも多かれ少なかれあると思うが。

ひとつのタイトルがヒットすると類似したものがうようよと湧いてくるというのはどの業界でも同じ。そんな見分けのつかない本がどんどんつくられ「入ってきてしまう」のだった。

たとえ自分が注文していなくてもそのように「入ってきてしまった」本でもいったんは代金を支払っているので(返品はできるが)、ためしに置いてみて売れればラッキー、なのだ。で、置いてみると、売れるのである。そして類似書籍も隣に置けばそちらも売れる。そしてまたその隣にも。気づけば平台ひとつぶんくらいの一大コーナーができている。

話はとぶが、当時私がいた会社は「イケイケドンドン」な状態で、とにかく売上第一主義だった。エリアマネージャーからのある日のFAXに「売上だけが正義です!」と太いマジックででかでかと書かれていたのを今でも鮮明に覚えている。

そのような会社の雰囲気のなか自分の気持ちはどうあれ、飛ぶように売れていく商品が増殖していくのを止めるのは難しい。

「癒し本」は「ヘイト本」とは違うので、それが増殖しても「なんだかなあ」という気持ちこそあれ罪悪感はなかったが、自分の目の前で飛ぶように売れるのがもし「ヘイト本」だったら?自分はどうしただろう?もしかしたら「仕事だから」と売ったかもしれない。

著者は「ヘイト本」に関わるひとたちをアイヒマンに例えている。皆「ヘイト本」を良しとは思っていない「普通のひと」だ。しかし皆がそれに積極的に賛意を示さないとしても、「仕事だから」と割り切り与えられた仕事を無批判にこなしていくうち社会が酷いことになるのだと。

どんな仕事だとしても、それが自分の「メシのタネ」であると同時に社会になんらかの影響を及ぼしているのだという自覚は大切だ。それは書店勤務ではない今でも、他人事ではない。


2019年10月28日月曜日

『密林の語り部』ガルバス・リョサ(岩波文庫)

20代の頃、人類学者カルロス・カスタネダの一連の著作にはまった時期がある。彼がヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥスに弟子入りをし、哲学的な対話や薬草を用いた意識変容などを学んでいくというものだ。私はリアルタイム世代ではないが、それらはその昔、資本主義社会を批判するカウンターカルチャーのバイブル的に持ち上げられたりもした。ドン・ファンが実在する人物かどうか不明ということで論争にもなったそうだが、私にとっては、それがノンフィクションであろうがフィクションであろうがどうでもよかった。読み物として抜群に面白かったからだ。

一連の著作の初めのころは、人類学者としてあくまで客観的視点を保とうと努めるカスタネダであるが、師であるドン・ファンに入れ込んでいくにつれ徐々にそれは失われ、中盤以降、確かに、ファンタジーとしか思えないような「非科学的」な展開が目白押しになる。例えば、呪術師どうしで、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンド合戦のような場面があったりする。それを「嘘」と一刀両断することも可能だが、カスタネダにとってはそれもまた真実だったのではないかと思うのだ。そして後世の若い一読者である私に大きな爪痕を残した。

リョサの『密林の語り部』を読み、久しぶりに思い出したのはあの頃の興奮だった。

1980年代のフィレンツェ。中年の男が画廊で偶然あるものをみつけ戦慄をおぼえる。アマゾン奥地で原住民の一団が輪になり催眠術にでもかかったように貌のみえない<語り部>の話をきいている写真だ。それみつめる男のなかで、過ぎし青春時代がよみがえる。

ペルーの首都で大学に通う<>は、顔に大きな痣のあるユダヤ人サウルと出会い友人関係となる。サウルはアマゾン奥地への旅をきっかけにそこに住む部族、とりわけマチゲンガ族に並々ならぬ興味と執着を抱くようになっていく。呪術や神話を信じ狩猟採集をする彼らの生活や文化を保護し続けることが重要だと主張するサウルと、国の経済発展のために多少のアマゾンの開発はやむなしとする<>のあいだには溝が生じるも友情はかわらず続いていた。その後、音信不通となったサウルがイスラエルへと移住したという噂を耳にする。

さらに月日が経ち、テレビ番組制作の仕事に就いた<>はアマゾンを訪れる機会を得る。そこで、マチゲンガ族のあいだを渡り歩き、その地の神話や伝説や出来事などを伝承する<語り部>の存在を思い出す。学生時代、<>もアマゾンへ赴いたことがあり、その際<語り部>に強く惹かれ小説の題材にしようと決心していたのだった。しかしそれは神秘的な存在で、現地のひとびとにきいても固く口を閉ざすだけだった。

本書は、主人公<>が友人サウルとの思い出や密林への旅を回顧する章と、<語り部>によって部族の生活や伝説が語られる章が、交互に配置されている。

後者は、私たちが慣れ親しんだ時制や文法、常識といったものを飛び越え、<語り部>独特の作法で語られ、未知の単語も頻出するので、初めは正直なところ読みにくいし面食らうが、こここそが本書の肝だと思う。

<語り部が話すように話すことは、その文化の深奥のものを感じ、生きることであり、その底部にあるものを捉え、歴史と神髄をきわめて、先祖からのタブーや、言い伝えや、味覚や、恐怖の感覚を自分のものとすることだからだ>

世界は資本主義、利益最優先、科学万能の精密歯車で動いている...ようにみえるが、皮膜を剥いでいけば、その奥にはそれらと違う次元で駆動する世界が潜んでいるのではないか。そんな直観を<語り部>の語りは与えてくれる。これはペルーの話だが、私たちすべての社会に通じることだと思う。呪術の世界をまるごと信じるわけではなくとも、カスタネダや<語り部>の話にわくわくする気持ちは、自らのなかにある原始の遺伝子がそれらに呼応しているしるしだと思うのだ。

<《放浪する人は放浪するのがよい》と、セリピガリ(評者註 : よい呪術師のようなもの)は言った。それが知恵だと思う。それはよいことだろう。人間があるべきものであることは。>

私たちが普段使う「知恵」とは少し顔つきの違う「知恵」が密林の陰からのぞいている。M

2019年5月17日金曜日

『11』津原泰水(河出文庫)


昔、中古高級腕時計の鑑定の仕事をしていた。細かな査定には高度な技術が要るが、裏蓋を開け一見すれば真贋くらいは素人でもすぐにわかることが多い。粗悪な偽物は外観のみそれらしくつくられていても中身はといえばお粗末な機械たちが雑に押し込められくすんでみえる。本物は違う。緻密に組まれた小さな歯車ひとつに至るまで入念につくりこまれ、普段見えない部分であるにも関わらず装飾が施されているものまであり、光輝いている。

 津原泰水の短編集『11』はそんな高級時計のような作品だ。まずは文体=外観の変幻自在ぶりに圧倒される。一息つき査読してみると、話を構成する部品たちは丹念に磨き上げられ、理知の力によって精緻に組み上げられている様がみえてきて、さらに驚く。
 
亡き娘の遺品である延長コードを繋げ闇へと降りていく『延長コード』、恋人の顔を焼いた美術家がその幻影に取りつかれる様を日記体で描く『微笑面・改』、男と別れひとりで暮らす女が同じ種類の犬を飼い続け狂気に陥っていく『クラーケン』などそれぞれ違う味わいの十一の作品が収められており甲乙つけがたいが、頭に置かれた『五色の舟』は白眉だと思う。

 大戦前夜の日本。見世物を生業とする「家族」が一艘の舟に身を寄せ合うようにして暮らしていた。家族、といってもそれぞれ血は繋がっていない。主人公「僕」は腕がなく口がきけない。それゆえ座長である「お父さん」にひきとられた。他の「家族」は、一寸法師で怪力の昭助兄さんや、腰から下をもうひとりと分け合って生まれた桜、膝の関節が後ろ前の牛女・清子さん、みな客にみせるために寄せ集められたものたちである。興行のため、蛇の鱗の刺青を入れられたり、「姉弟」の交わりを強いられたりと、客観的にみれば甚だ酷い環境であるが、本人たちは、しかしどこか幸せそうである。地獄のごとき世のなかで、分かり合えるものがいる小さな舟のなかだけは聖域のようだ。そんななか「お父さん」が牛と人のあいだに生まれ、予言ができるとされる「くだん」を買い取ろうとしていた。その目的は単なる見世物のためだけではないことが徐々にわかってくる。聖域が破壊されそうだという危機感に「僕」は奔走するが、ついに「くだん」と対面し、事態はまったく予想しえなかった展開をみせる。

 残酷が日常である異形のものたちの世界であるが、作者は興味本位でそれを題材として選んではいない。端正で優美な筆致も、雰囲気や美的センスといったような感覚的な言葉には回収されない。終盤の重要な展開に関係するので詳しく述べられないが、そのSF的仕掛けともっともかけ離れたところに位置する登場人物たちと、もっともそのジャンルから遠いるようにみえる語り口が採用されていることにより、読者の驚きが最大限増幅されるのだ。すべては物語を駆動させるのに必要不可欠な機構として組み込まれ完全にコントロールされている。M



2019年4月18日木曜日

『ピース』ジーン・ウルフ( 国書刊行会)

再読を終え、私の頭脳のモーターはフル回転の勢い余り、まだ煙を吹いている。ジーン・ウルフ『ピース』の読書は相当な負荷とともにそれに見合うだけの興奮をもたらした。

初読時は「???」の連続で「ピンとこない」というのが正直な感想だったが、全体像がわかってからの2回目は全く違った景色が広がり驚いた。

舞台はアメリカ中西部、架空の町、キャシオンズヴィル。主人公オールデン・デニス・ウィアは土地の有力者の末裔で、遺産のなか何不自由なく暮らしている。年老いた彼の思い出の場所を模して
つくられた館で、オールデンの少年時代や青年時代がランダムに回想される。

美しく聡明な叔母オリヴィアとの生活。彼女に求婚する複数の男たちとの奇妙なエピソード。彼女と結婚することになる男の幽霊やサーカスを巡る不思議な話。ある稀覯本を巡る古書店主や土地に秘められた謎。などなど。さらにその合間に、千夜一夜物語や中国の昔話など様々な逸話が挿入される。

本筋というものがあるようでないまま物語は終わる。これはいったい何についての話なのか。時空を自在に行き来し、虚構と現実も軽々と飛び越える本書のつくりにはじめはついていけず振り落とされた。恐らくこれは回顧する老人の朦朧とした頭のなかそのものを表しているのだ、という浅はかな解釈に一旦は逃げることにしたものの、意を決して再読に臨むと、そのような単純な小説ではないことが徐々にわかってくる。

ランダムに置かれた、と思われたそれぞれのエピソードが実は周到に設計されていることが判明する。また先に私は迂闊にも「回想」と書いてしまったが、注意して読むと、本当に「回想」なのかどうかも怪しく思えてくる。

<こうして書いている出来事のいくつかは実際に起こらなかったかもしれず、ただそうだったはずだと思っているだけかもしれない>と作者は主人公自身に言わせているのだ。さらに<いまのぼくも目を覚ましていない>といった謎めいた記述がところどころに続き、極め付きは、ラストの1行。凡百の「ドンデン返し」がひれ伏す「あ!」という驚きが待っている。

などと書くと、仕掛けを楽しむエンタメ小説なのか、と誤解を招きそうだが、某官房長官風にいえば「それは全く当たらない」。「わかった」気に浸ることができるのもつかの間、さらに読み返すとまだまだ謎が無数に残っていることに気が付く。

表紙のイメージにもなっており作中でも頻繁にでてくる「卵」は何を意味するのか。また同じく頻繁に登場し、主人公が経営する工場の生産物の原料でもあるオレンジの意味は?どちらも全体を覆う死のイメージに対する生・再生の象徴にも思えるが、はっきりとはわからない。そしてそもそもタイトルの「ピース」とはいったいなんだろう。

<物質とエネルギーはなくならないんですよ。形をかえるだけです。だから存在するものは変化することはあっても、無くなることはないんです。存在というのは金属とか光線だとかには限りません—景色や人格や記憶だって存在するんです>。青年オールデンは医者にこう話す。

生者も死者も、現実も虚構も、現在も過去も、『ピース』のなかではキャシオンズヴィルというひとつの世界に「真実」として配されている。物質とエネルギーがかたちをかえてもなくならないのと同じように、それらは等価なのだ、と作者は言っているようだ。

と、また陳腐な解釈をしてしまった。私が言いたいのは、『ピース』はこんな風に、百人いれば百人の「読み方」、言い換えれば「遊び方」ができる本だということだ。

ジュヴナイル。ミステリー。伝奇。哲学。たくさんの顔がある。それぞれの楽しみ方で楽しめばいいと思う。

巻末の訳者・西崎憲さんによる詳細な解説と謎解きのヒントが本書のさらなる愉しみと、深まる謎を倍加させてくれるので必読。

再読なんてまだ甘い。再々読、再再々読。キャシオンズヴィルは訪れるたびに違う表情を見せてくる最高の散歩コースだ。M