2019年4月18日木曜日

『ピース』ジーン・ウルフ( 国書刊行会)

再読を終え、私の頭脳のモーターはフル回転の勢い余り、まだ煙を吹いている。ジーン・ウルフ『ピース』の読書は相当な負荷とともにそれに見合うだけの興奮をもたらした。

初読時は「???」の連続で「ピンとこない」というのが正直な感想だったが、全体像がわかってからの2回目は全く違った景色が広がり驚いた。

舞台はアメリカ中西部、架空の町、キャシオンズヴィル。主人公オールデン・デニス・ウィアは土地の有力者の末裔で、遺産のなか何不自由なく暮らしている。年老いた彼の思い出の場所を模して
つくられた館で、オールデンの少年時代や青年時代がランダムに回想される。

美しく聡明な叔母オリヴィアとの生活。彼女に求婚する複数の男たちとの奇妙なエピソード。彼女と結婚することになる男の幽霊やサーカスを巡る不思議な話。ある稀覯本を巡る古書店主や土地に秘められた謎。などなど。さらにその合間に、千夜一夜物語や中国の昔話など様々な逸話が挿入される。

本筋というものがあるようでないまま物語は終わる。これはいったい何についての話なのか。時空を自在に行き来し、虚構と現実も軽々と飛び越える本書のつくりにはじめはついていけず振り落とされた。恐らくこれは回顧する老人の朦朧とした頭のなかそのものを表しているのだ、という浅はかな解釈に一旦は逃げることにしたものの、意を決して再読に臨むと、そのような単純な小説ではないことが徐々にわかってくる。

ランダムに置かれた、と思われたそれぞれのエピソードが実は周到に設計されていることが判明する。また先に私は迂闊にも「回想」と書いてしまったが、注意して読むと、本当に「回想」なのかどうかも怪しく思えてくる。

<こうして書いている出来事のいくつかは実際に起こらなかったかもしれず、ただそうだったはずだと思っているだけかもしれない>と作者は主人公自身に言わせているのだ。さらに<いまのぼくも目を覚ましていない>といった謎めいた記述がところどころに続き、極め付きは、ラストの1行。凡百の「ドンデン返し」がひれ伏す「あ!」という驚きが待っている。

などと書くと、仕掛けを楽しむエンタメ小説なのか、と誤解を招きそうだが、某官房長官風にいえば「それは全く当たらない」。「わかった」気に浸ることができるのもつかの間、さらに読み返すとまだまだ謎が無数に残っていることに気が付く。

表紙のイメージにもなっており作中でも頻繁にでてくる「卵」は何を意味するのか。また同じく頻繁に登場し、主人公が経営する工場の生産物の原料でもあるオレンジの意味は?どちらも全体を覆う死のイメージに対する生・再生の象徴にも思えるが、はっきりとはわからない。そしてそもそもタイトルの「ピース」とはいったいなんだろう。

<物質とエネルギーはなくならないんですよ。形をかえるだけです。だから存在するものは変化することはあっても、無くなることはないんです。存在というのは金属とか光線だとかには限りません—景色や人格や記憶だって存在するんです>。青年オールデンは医者にこう話す。

生者も死者も、現実も虚構も、現在も過去も、『ピース』のなかではキャシオンズヴィルというひとつの世界に「真実」として配されている。物質とエネルギーがかたちをかえてもなくならないのと同じように、それらは等価なのだ、と作者は言っているようだ。

と、また陳腐な解釈をしてしまった。私が言いたいのは、『ピース』はこんな風に、百人いれば百人の「読み方」、言い換えれば「遊び方」ができる本だということだ。

ジュヴナイル。ミステリー。伝奇。哲学。たくさんの顔がある。それぞれの楽しみ方で楽しめばいいと思う。

巻末の訳者・西崎憲さんによる詳細な解説と謎解きのヒントが本書のさらなる愉しみと、深まる謎を倍加させてくれるので必読。

再読なんてまだ甘い。再々読、再再々読。キャシオンズヴィルは訪れるたびに違う表情を見せてくる最高の散歩コースだ。M

2019年4月11日木曜日

『幻影の書』ポール・オースター(新潮文庫)

店とはきまぐれなもので、なにをやってもお客様がなかなかこないことは多い。だんだん気分は落ち込み、行動する気力が奪われ、ただ無意味にインターネットなどをぼんやりみたりしていると、さらに鬱鬱とした気持ちになる。これはいちばんよくない循環である。お客様が来ても来なくても、「Do Something」。とにかくなにかをすること。これが肝要だ。

『幻影の書』(ポール・オースター著)の主人公は、そんな私の卑小な日々の悩みなどとは比べ物にならないほど大きな絶望を抱えるが、やはり、「なにか」をしはじめたことにより生き延びる。そして物語は幕をあける。

中年の大学教授である主人公=<私>は、妻と二人の子供を飛行機事故で同時になくし、休職し、失意の底にいた。そんな折、偶然テレビで古い無声映画に出演するあるコメディアンをみかけ、魅了されていく。とにかくなにかすることを探していた<私>は、ヘクター・マンというその無名俳優を研究することを思い立つ。国内外に散ったアーカイブをみてまわり研究書まで発行するに至った彼のもとへ、ヘクターの妻を名乗る人物から一通の手紙が届く。ヘクターがあなたに会いたいと言っている、と。彼は驚きとともに疑いの目を向ける。ヘクターははるか昔に行方不明になり死んだものを思われていたのだ。そんな彼のもとへ、さらに謎の女性が現れ、強引にヘクターのもとへ連れて行こうとする。そして<私>は徐々にヘクターの知られざる人生を知ることになる。ヘクターにも実は壮絶な過去があったのだ。身も心も捨て鉢になり、彼もまた、とんでもない「なにか」をしはじめていた...。

<私>もヘクターもその「なにか」をする目的は明らかにお金ではない。名声でもなく、何かを残したい、という意志でもない。ひとは絶望の淵で、やむにやまれずなにかをし、そして別のどこかへと通り抜けていくのかもしれない。

<私>は言う。

<世界はさまざまな穴に満ちている。無意味さの開口部に精神が歩いて通り抜けられる微小な裂け目にあふれている。ひとたびどれかそうした穴の向こう側に行ってしまえば、人は自分自身から解放される。自分の生から、自分の死から、自分に属するあらゆるものから解き放たれる>

<私>にとって<穴>はある日たまたまみかけたテレビ番組だった。研究書を書いたことにより、それまでまったく縁のなかった映画/虚構の世界へと通り抜けてしまったのだ。そして虚構の世界の住人であるはずだったヘクターもまた、ある計画の末、みずからつくりだしたさらなる虚構へと人生を重ねていく。読み進むにつれ人生の現実と虚構の境目はいったいどこにあるのかだんだんわからなくなってくる。

それもそのはず。この本のタイトルは『幻影の書(THE BOOK OF ILLUSIONS)』。読後にみかえせばこのタイトルじたいが「人生とは幻だ」と言っているようにみえてくる。

ちなみに<穴>を通り抜けた先に<私>を待ち受ける結末には唖然とさせられるほかない。きっとそこからまた新しい物語=<幻影>がはじまり新しい<書>が紡がれるのだと思う。M