2022年7月28日木曜日

『雌犬』ピラール・キンタナ(国書刊行会)

 ピラール・キンタナ『雌犬』の主人公と同じく私も雌犬を飼っていた。小学生の頃、担任が仔犬の貰い手を探しており、一目惚れした私は「自分が面倒をみる」と親を説得し半ば無理やり引き取った。溺愛し、一緒に寝、胸元に抱き連れてまわった。年月が経つにつれ人生の楽しみが増え私の犬に対する関心は薄れていった。散歩や餌やりなど日々の「義務」が面倒くさくなりいつもおざなりに済ませ冷たい鎖につなぎ私は遊びに出た。大学生になり私が語学留学で海外へ行っているあいだに老いた犬は死んだ。私は泣かなかった。あれから数十年経った今もその犬のことをよく思い出し、毎度胸が疼く。そして心のなかで謝り続けている。自分の残酷さに向き合いながら。

 そんな私にとって『雌犬』はきつい本だ。しかしそんな私だからこそ魂が揺さぶられる感覚をおぼえる特別な一冊でもある。

 主人公ダマリスは四十過ぎの女。コロンビアの海沿いの小さな村で屋敷の管理をしながら漁師の夫とともに貧乏な生活を送っている。子のない彼女はふとしたことから雌の仔犬を貰い受け可愛がりはじめる。粗暴で動物虐待を屁とも思わぬ夫から守り育て愛情を注ぐ。夫婦生活はすでに冷え切っており彼女のなかで雌犬は夫より大切な存在だった。しかし雌犬に逃げだす癖がついたのをきっかけに彼女の犬に対する気持ちと態度は徐々に冷淡なものにかわり、さらに、昏く複雑な感情もまじってゆく。

 子供時代、海で事故により友達を亡くし、傍でみていた彼女は親類に罰として鞭打たれ、その死は自らの責任だと思い込むようになる。やがて結婚し子ができぬまま歳を重ねると<女が乾く年頃>と周りに言われ、女としての機能を失ったという意識が芽生え内面化していった。そうした過去や罪の意識、自分に対するネガティブな感情が、雌犬の成長とともに彼女の裡で膨らみ、あるきっかけで破裂する。クライマックスの出来事に至りついに「ああっ」と声がでてしまった。それが何の感嘆なのかあえて書かないのでご自身で体感されたし。

 舞台となる一帯は密林と海に囲まれ観光客も訪れると書いてあるから恐らく一般的に「トロピカル」と形容されるような美しい場所なのだと想像する。しかし、貧乏で携帯電話もほとんど使えず、買い物へ行くにも海に浸かって歩かなくてはいけないような崖の上で暮らす主人公にとってそこは逃げ場のない地獄。物理的な隔絶だけではない。孤独、罪の意識、悔恨、そして古い因習や女性に対する前時代的な価値観、暴力などに囚われている。

 結末は所謂ハッピーエンドとは言い難い。「許せない!」と思う読者も少なからずいるだろう。しかし主人公のなかには人生で初めて感じる開放感や光明のようなものも生まれたのではないかと思う。彼女にとって雌犬とはなんだったのか。子ができなかった女にとっての疑似的な娘、とみることもできるが、世界で唯一心通わすことができるもうひとりの自分でもあったのではないか。しかしそれは徐々に制御不能になり、彼女が掴めたかもしれずでも結局手に入らなかったものをみせつけることになる。そしてとったある行動の結果、それまで想像すらしなかった未来への扉が開く。今まで彼女を遮ぎっていた障壁、先のみえない密林の奥へ。

 という文学的読み解きをしつつ最後にこれも書いておきたい。私はやはり犬はメタファーではなくあくまでも犬として読んでしまう。犬への悔いというものは消えることはない。密林を抜けた先にどんな未来が待っていても、ダマリスのなかに苦い思いは残り続けるだろう。それだけははっきり言える。M

2022年7月25日月曜日

『ディスタント』ミヤギフトシ(河出書房新社)

  映像、オブジェ、写真など様々な形態で作品を発表する現代美術作家ミヤギフトシの初めての小説集『ディスタント』は読む者に「きらめき」を体感させる。それは文字通り「光」のことだ。

<金色の刺繡糸がジョシュの呼吸に合わせてかすかに光を反射し、彼のまわりを無数の埃が金色の粒子になって浮かんでいた>

 ここではわかりやすく具体的に光が登場する箇所を引用したが、直接それを描かずとも、ミヤギ氏の文章はどれも静かに発光している。それは彼が光と影を採取するプロ、写真家でもあることが大きな要因のひとつだろう。自分の内側にみえないカメラを向け、様々な記憶や風景をシャッターのかわりに言葉で切り取り、コラージュのように配置した、本作はそんな一風かわった小説なのである。小説という体をとっている以上主人公=作者ではないが作者の経歴やインタビューを読むかぎり「≒」ではあると考えてよいと思う。

 主人公は80年代初頭に沖縄の小さな離島で生まれた男性。セクシャルマイノリティでもある。小さな島から那覇に出たのち、大阪の専門学校を卒業し、ニューヨークの大学へとすすみ現在は東京で活動するアーティスト。読者は時代を行き来する回想を味わいながらその人生のパーツを脳内で組み立てていくことになる。

 子供の頃、ハーフの双子と一緒に米軍基地の近くの部屋でレンタルビデオをみて過ごした幸せな時間。友達4人で行方不明の難民の子供を探しに<秘境>と呼ばれる小さな島へ冒険へ行く映画『スタンド・バイ・ミー』のような話。大阪で、成長した件の双子のひとりと再会し那覇での高校時代の甘苦い出来事を思い出す話。ニューヨークで作品づくりのため、見知らぬ男性の家へあげてもらい、<まるで恋人どうしであるかのような写真>を撮影する話。などなど。

 派手な見せ場やあっと驚くようなどんでん返しはない。明確な起承転結もない。あるのは小さなエピソードの連なりだけだ。しかし驚くほど心奪われる。それは各光景が、誰もが若い頃経験する”何者でもない時間”の、どこへ辿り着くとも知れぬ大海を揺蕩うような、不安と期待と切なさが入り混じるあの感覚を思い起こさせてくれるからだ。

 静謐ながらも改行少なく押し寄せてくるような文章は物語を駆動させるためのたんなる道具ではなく、本というキャンバスにばらまかれた大量のスナップのようだ。テレビゲームや音楽、ハリウッド映画など当時のポップカルチャーも大量に織り込んだその一文一文から、苦悩や痛みも含めそれまでの人生すべての瞬間を愛おしむ気持ちが伝わってくる。それが一見平凡な時だったとしても。いや。だからこそ。


<長い両腕が持ち上げられ、腕、肘、手と僕は視線を上げていき、開かれた細く繊細な指にみとれながら、その隙間を流れる空気を想像しようとした。このまま濃さを増すと黒くなってしまいそうなほど深く沈んだ青色は、ささやかにちらつくきらめきをも吸い込んでしまいそうだった>。時折顕れるこのような文章に私は息をのむ。主人公が好意を抱いたと思しき相手へと、自然と彼の眼は”ズーム”し、目に見えぬ空気の粒子すら心にやきつけようとするのだ。

 最後の章で、主人公の人称がそれまでの<僕><私>から三人称<ジャック(ニックネーム)>へと変化する。それは長い時と移動を経て成長し自分を客観する視点を獲得したという証だろうか。離島から大都会へ。子供から大人へ。物理的な距離。時間的な距離。様々な”ディスタンス”で対象に焦点を合わせ綴られた無数の思い出たちが、きらめく星座のようにひとつの青春を浮かび上がらせる。M