2021年3月22日月曜日

『はじめての沖縄』岸政彦(新曜社)

 子供の頃に親の転勤で、大人になってからは自分の転勤で、沖縄に住んだことがある。それ以来私も『はじめての沖縄』の著者岸政彦と同じ「病」に罹っている。だから彼が次のように書く気持ちがよくわかる。<二十代の終わり頃、たまたま訪れた沖縄にハマり、いわゆる「沖縄病」になった>。社会学者である彼はその後研究テーマに沖縄を選び、長年繰り返し足を運ぶまでになる。 

 本書は初心者向けの沖縄ガイド本、ではない。歴史や時事問題を解説した本でもない。著者が、現地の人々から聞き集めた様々な語りをちりばめながら、「ナイチャー(内地の人間)」としてそれらをどのように書き、伝えればよいかという苦悩や葛藤それじたいも含め綴った一風かわった「沖縄本」だ。

 タクシー運転手とのたわいない世間話からおじいおばあの凄惨な戦争体験談まで、彼が集めた語りは多岐にわたる。

 たとえば、戦時中、石垣島で避難生活を送った女性の話。マラリアに苦しむ母親が熱を下げるため頭を盥の水につけて寝ていたら反対側から蛇がその水を飲んでいた。彼女は言う。<蛇も音を立てて飲むよ>。ただそういうことがあったという話だがどこか幻想小説めいてもいて強烈な印象だ。  

 著者は、死屍累々を踏んで歩くような壮絶体験と区別せずこのような「小さな」話にも熱心に耳を傾ける。なぜなら、<どの経験も、どの物語も、すべて沖縄である>からだ。<沖縄的なもの>とは<文化的DNA>とか気候風土ではなくもっと個人的で世俗的なものと関係がある考える。だから普通の人々の話を聞き続ける。

 同時に沖縄を愛するがゆえに境界線をひく。<自分は内地の側にいて、そして沖縄の人びとは沖縄にいる>、と。 <「日本の」側>は琉球を武力で併合し、捨て石のように扱い、地上戦を招き、二十七年間アメリカに譲り渡し、その後も基地を残存させた。<どこまでも、非対称的な、不平等な、一方的な関係>なのだ。それにまだ「カタ」がついていないからこそ、<境界線のこちら側に踏みとどまり(略)この分厚く高い壁について考えたい>。

 確かに私も目に見えない壁を感じることは多い。沖縄の人々はすごく優しい。そしてとても親切だ。それらに感動こそすれど嫌な思いをしたことはほとんどない。だが私が「ナイチャー」である限り、その内部に壁はある。そしてそれは彼ら「ウチナンチュ」のなかにもおそらくある。差別や偏見。認めたくないが否定はできない。それをないことにして、みないふりをして、沖縄と本当に<出会う>ことはできないと感じる。私は岸の態度に共感する。これはもう沖縄だけの話ではないよな、と思っていると本書は終盤、さらに大きなテーマ=「社会とはなにか」へと広がりをみせる。

 岸によると、社会とは人々がお互いにつながっている状態ではない。もしつながっているならば私たちはいつもこんなに寂しく孤独であるはずはない。つながっているのは「市場」という場においてだけだ。切り離された個人の集まりである社会において、私たちはお互いの立場を交換することができない。が、言葉による理解は努力すればできる可能性がある。境界線のこちらと向こう。それでもつながりを希求する著者が導きだした方法は、クリシェと化した言説でなく、個人の言葉を世俗的に語ること、なのだ。

 美ら海水族館へ行っただけでは、国際通りを歩いただけでは、ソーキそばを食べただけでは、<本当の沖縄>には出会えない。憧れのひとに恋焦がれても見ているだけでは心には触れられないように。まず、聞き、語ること。それは言葉が架ける橋。いつ架かるかわからないし、架かるかどうかもわかならい。でももしかしたらいつか心の境界を越えることができるかもしれない。そのときみえる景色がきっと「はじめての沖縄」だ。