2020年1月21日火曜日

『私は本屋が好きでした』永江朗(太郎次郎社エディタス)

世には「本屋にかんする本」「出版にかんする本」がたくさん出ているが、普段そういう本はほとんど読まない。

昔10年ほど書店員としてどっぷりと働いたことがあり、そのときのややトラウマ的な記憶もあいまって、本に関する業界内幕話はもうお腹いっぱい、むしろあまり目を向けたくないという気持ちがあるからだ。

本書は先日常連のお客様が持ってきてくれ、たまには、と気まぐれに読んでみたのだった。

嫌韓反中のいわゆる「ヘイト本」がどのような仕組みでつくられ本屋に並べられるのかについて取材し当事者たち(編集者、取次、本屋)のインタビューを交えながら詳細に考察していく。

その過程でみえてくるのは現在の出版物の販売方法、流通方法が抱える根本的な問題である。

例えば先に私は「取次」とさらっと書いたが、本屋事情にあまり詳しくない方はなんのことだかよくわからないのではないか。

一般的な本屋は雑貨屋などと異なり「仕入れたいもの、売りたいもの(だけ)を注文して仕入れて売る」という単純なシステムではない。

ものすごくざっくりいえば、基本的には「取次」と呼ばれる会社を通じて「配本」されたもの、文字通り「配られた本」を売るのである。だから商品が到着する当日まで自分が何を売るかわからないという奇妙な商売でもあるのだ。(もちろん個別に注文もできるしいろいろ例外はありますが詳しくは本書に委ねます。)

だから本屋じたいが「ヘイト本」を積極的に売ろう、注文しよう、と思わなくても「入ってきてしまう」のである。

ここからはすこし私の個人的な体験、体感。

私が本屋で働いていた当時は「ヘイト本」的なものはほとんどなかったと思うし、万一配本されたとしても私が働いていた書店はどちらかといえば「セレクトショップ的書店」だったので置かなくても(そのまま返品しても)会社的に問題はなかっただろう。

だがそういう明らかに問題のある書籍ではないが、担当者(私)が特に売りたいと思っていなくてもどんどんひとりでに売り場が増殖していってしまうという経験はたくさんある。

たとえば当時、私が「癒し系」とよんでいた本が大量に出版されていた。ふわっとした絵や写真にふわっとした文章が少し載ったような本。今でも多かれ少なかれあると思うが。

ひとつのタイトルがヒットすると類似したものがうようよと湧いてくるというのはどの業界でも同じ。そんな見分けのつかない本がどんどんつくられ「入ってきてしまう」のだった。

たとえ自分が注文していなくてもそのように「入ってきてしまった」本でもいったんは代金を支払っているので(返品はできるが)、ためしに置いてみて売れればラッキー、なのだ。で、置いてみると、売れるのである。そして類似書籍も隣に置けばそちらも売れる。そしてまたその隣にも。気づけば平台ひとつぶんくらいの一大コーナーができている。

話はとぶが、当時私がいた会社は「イケイケドンドン」な状態で、とにかく売上第一主義だった。エリアマネージャーからのある日のFAXに「売上だけが正義です!」と太いマジックででかでかと書かれていたのを今でも鮮明に覚えている。

そのような会社の雰囲気のなか自分の気持ちはどうあれ、飛ぶように売れていく商品が増殖していくのを止めるのは難しい。

「癒し本」は「ヘイト本」とは違うので、それが増殖しても「なんだかなあ」という気持ちこそあれ罪悪感はなかったが、自分の目の前で飛ぶように売れるのがもし「ヘイト本」だったら?自分はどうしただろう?もしかしたら「仕事だから」と売ったかもしれない。

著者は「ヘイト本」に関わるひとたちをアイヒマンに例えている。皆「ヘイト本」を良しとは思っていない「普通のひと」だ。しかし皆がそれに積極的に賛意を示さないとしても、「仕事だから」と割り切り与えられた仕事を無批判にこなしていくうち社会が酷いことになるのだと。

どんな仕事だとしても、それが自分の「メシのタネ」であると同時に社会になんらかの影響を及ぼしているのだという自覚は大切だ。それは書店勤務ではない今でも、他人事ではない。